分蜂蜂球

そういえば、ここ何日か、やけに蜂がよく部屋の中に入ってくるなぁと、いぶかしんではいたが…。


先月30日の朝。
ふと、何の気なしに、庭にある古い柿の木を見上げて、息を呑んだ。


ゆうに千匹は超えるだろうとおぼしき蜂が、柿の太い枝に群がっている。
私が生まれたころから庭にある柿だが、こんなことは初めてだ。
てっきり、蜂が巣を作ったと思い込んだ。この楕円の中心部には、六角形が無数に連なった、あのハチノスが出来ていて、蜜を運んできた働き蜂が、獲物を巣へ貯蔵すべく順番を待っているのであろう、と。

それにしても、いつの間に。
柿は、毎日見ているといえば見ているし、目は向けていても枝にまで意識は向けていない、といえばその通りでもある。いつから出来ていたのだろう。それすらわからない。
かたまりは私の背丈より高い所にあるから、わざわざ手を伸ばして刺激しない限り、とりあえず刺されることはなさそうだと判断し、少し落ち着いて観察を始めた。



ジャックフルーツのような楕円の「かたまり」は、長径20センチはあるだろうか。「順番」を待ち疲れたのか、何匹かは、かたまりから離れ、柿から2メートルほどの私の部屋の戸のあたりにも来ている。最近部屋で、ちょくちょく蜂を見かけたのは、この巣の建築作業をしていたからだな、と合点した。

小型のありふれた蜂だから、たぶんミツバチだろう。
ほどなく、秋が来て柿が実をつけると厄介だなと思い至った。実を収穫するには、柿の木にはしごを立てかけて昇り、枝を切ったりしなければならない。ミツバチの立場からすれば、こちらにその気がなくても、蜜を奪いに来たと解釈するだろう。これだけの数の蜂に、わあっと束になってかかられては、命が危ない。誤って巣を叩いたり、登山中に踏んだりして、大量の蜂に襲われ、ショック症状で死ぬ人は、年に何人かいると聞く。熊に襲われて死ぬのに比べても、多く発生しているとか。
一度作った巣は放棄されるまで、どれくらいの間使われるものなのだろうか。よその軒下で蜂の巣を見たことはあるが、このような、雨が降るとずぶ濡れになる場所に巣を作るものだろうか。庭にはいろいろな木々があるのに、なぜその中で柿なんだろうか…。

昆虫の生態に疎い私は、以上のような疑問について、あとでネット等で調べることとし、写真をデジカメに撮っておいて、用事をしに外へ出かけた。上に掲げたのがその写真だ。

疑問への答がわかるサイトは見つけられず、その日の夕方、庭へ戻った私は、朝と同じくらい、いや、それ以上に仰天した。
あのかたまりが、きれいさっぱり無くなっているではないか。周囲を見渡しても、蜂はただの1匹もいない。

狐につままれた、とはこういう気分を言うんだろうな、とデジカメを再生してみると、ちゃんと、かたまりは写っている。狐狸(こり)のたぐいに化かされたわけではないのだ、と本気で確かめてしまった。
ひょっとして、蜜がいくらか柿の枝に付着していないかと触ってみたが、ごつごつと節くれだった柿の枝は、味気ないほど、乾いた黒い棒にすぎず、蜂がいた形跡すらなく、また昆虫を呼び寄せそうな樹液を出しているはずもなかった。

唖然とした気分はそのまま日が変わっても続いていたが、数日後、偶然に、疑問を氷解してくれるサイトに行き当たった。

その正体が、表題にある「分蜂蜂球」である。
ある蜂の巣で、女王蜂が子供を産む。そのうちのごく少数は、次世代の女王になる。すると、旧女王は、新女王に巣を譲って巣立っていく。その際、営巣のための、お誂え向けの新しい場所がすぐ見つかるとは限らない。で、斥候が周辺を下見する。適当な場所を確保するまで、女王と一緒に巣を出てきた働き蜂たちが、親衛隊よろしく、彼女をとり囲んで守る。それが「分蜂蜂球」だという。
ありふれたハチノスではなかったのだ。いわば「引越し中」の仮の滞在場所(肉弾ホテル?)だから、どこに作ってもよさそうなものだが、柿は、比較的好んで分蜂蜂球を作る樹種のひとつだそうだ。
そして、同サイトには
「これを目にすることは珍しく、見ることが出来たら、それだけでもラッキーなこと」
とも書かれていた。


この説明を読んで、私はしばらく、うなり続けた。
そうして、子供のころ、国語の教科書で、フォン・フリッシュ博士の発見したミツバチの「8の字ダンス」によるコミュニケーションを知って、感心したこと。それに刺激されて、桑原万寿太郎の『動物と太陽コンパス』(岩波新書.1963年)を買ってきて、感心しながら読んだことを思い出した。


理科の面白さを忘れて久しくなっていた。
まだまだ知らないことが自然界にはあって、大人になってからも、何かの機会に身近に見ることができる。そういうことが偶然の重なりによって起こりうるのだ。逆に動物学の知識豊かな人が「分蜂蜂球」を観察したいと願っても、たとえ何百坪の庭付きのお屋敷に住んでいても、見られない人は見られない。一生、こういう現象を知らずに畢る人も多いだろう。現に自分も昨日まで知らなかった。
「見ることが出来たら、それだけでラッキー」とはよくぞ言ってくれた。仕事で報酬を得るうれしさなどは、この何ともいえない幸運感に比べれば一時的だ。何の足しにもならないのに、ものすごい得をした気分。
蜂は本能の命じるままに行動しているだけだが、人間が、それに「神秘」などという言葉で表される何かを感じるように出来ていることも確かだ。動物には「日常」だが、見る人間には一生に1回あるかないかの「非日常」。
そして、この得した気分が、あのかたまりを「分蜂蜂球」というのだと、その正体を知って初めて湧いてきたという事実も、また何かを語っているように思う。

自然が、たまに与えてくれるこの感じこそ、それこそ本質的なLUCKなのかもしれない。