大震災(7)−陸前高田の松

石巻にいる間に、心ふさぐニュースを宿で聞く。陸前高田市津波になぎ倒された木々を京都五山送り火で燃やして魂を送るのに使おうと一旦決まっていながら、京都側の当事者らが「市民の間に不安の声がある」との理由からこの木を使わないことに決めたという。
これで京都市と大文字保存会を責めたてるのは簡単なことだが、私はそういう気になれない。
200万の京都市民のうち、仮に0.1パーセントでも不安だと言えば、やはり二の足を踏んでしまうのはわかる気がするからだ。放射能とはそういうものなのだ。3.11までは、日本人は放射能アレルギーだ、核アレルギーだと言われてきたが、フクシマの爆発を受けての韓国をはじめ周辺国の反応を見れば、日本人だけに特有な拒否感ではないことがはっきりした。もちろん、だからといって韓国を過剰反応だと言う気はない。繰り返すが放射能ってそういうものなのだ。
たしかに陸前高田市の人たちに申し訳ないという感情から京都に抗議が殺到しているというのも無理はない。西日本の人間として同感ではある。東北の人は優しいからこらえてくれてるけど、もし立場が逆だったら? 大阪人はずけずけともの言うし、京都人はどうでもええ処でプライド高いから「出来へんのやったら、初めから『燃やす』なんて言わんといてくれや!」とか言いかねん

そういうことをよく承知した上でなおかつ、京都をとやかく言う暇があるなら、いちばん悪いのは東電はじめ原子力村だと改めて指摘すべきところだろう。これで京都と岩手が気まずくなったら、セシウムがどうのこうのいうこと以上に、原子力村の連中の罪深さがいっそう深まると思う。