「MOTHER」を聞きながらこう考えた

昨日の母の日、SEAMO「MOTHER」を聞きながら考えた。小さい頃の母の日は「お母さんに感謝する日」。ある歳を越えてからは、「おふくろに(心の中で)謝る日」だなと。
自分は、「朝早く起こしてと頼んでおいて、起こしてくれた母に『うるさい』と言ったこと」はなかったものの、あの歌には、身につまされる思いがする。例えば、一人暮らしを始めて、たまに帰省すると、いろいろご馳走を作ってくれていて、これも食べな、もっと食べな、と勧めてくれるのを「そんなに食べられん」と声を荒げてしまったこと…。その時の母の悲しそうな顔までが、SEAMOのラップが淡々と描写していくイメージに重なってありありと浮かんできてしまうのだ。
ただ、あの歌詞に身をつまされるのはきっと筆者一人ではないだろう。程度の差はあれ、誰しも、あの時は悪かったなー、と子供の頃の自分を責めているのではないか。だからこそ、あの楽曲が、多くの人に共感され、支持され、ダウンロードされているのに違いない。自分一人ではないからといって、その申し訳なさが減殺されるものではないが、かなりの気休めになるのも事実。普通は「心の中で謝る」母の日に、その謝罪を声にして公にし、われわれの気を軽くしてくれるがゆえに、「MOTHER」はありがたく、ひいては、音楽は貴い。
その母の13回忌が、この夏にやってくる。
それにしても、もしも「理不尽なことをされても、嫌な顔ひとつせず…」というのが「本当の愛」だと定義してしまうと、これはこれで大変なことになりそうだ。少なくとも、夫婦間には、この定義による「本当の愛」は成立不可能だろうから。