文明の選択は直接民主主義で

先週、志摩へ出かけたおり、電車から降り立ち、こんな感慨にとらわれた:
鈍行・急行・特急と、1本も間引かれずにダイヤ通りに電車が乗客を運び、人々が降り、それぞれ帰る家がある−−−ただそれだけの営みが、すごいことだ、と。
同じような感慨を述べる人は、3.11以降、多い。みなが異口同音に発する「普通の日常がこんなに有り難いものか」という言葉に同感だ。しかし、もう一歩進めて考えると、その「日常」はなんと危うい薄氷の上で、無理に無理を重ねて得たものだったことだろう。
廃棄物の一部が漏れ出ただけでも、細胞やDNAを破壊する物質で、大地と空気と海洋を汚す発電方法。原発の一体どこが「クリーンなエネルギー源」か。
そして、それを過疎地に押し付け、反対する自治体には億単位にのぼる補助金でツラをひっぱたき、下請け・孫請けで雇用を生み出してやるからと迫る。まるで、「都会人は電気使う人。田舎者は電気作る場を差し出す人」とでもいうように。
「過疎」を放置し、若者を地方につなぎ止めるまともな産業創出を怠ったのも国の無策。
とりわけ東京電力。保持する原発が、そのサービスエリア内に1基も無いというのはどう考えてもいびつとしか言いようがない。
それは、日米安保で国防を保障するため、米軍基地の4分の3を沖縄に押し付けてきたのと、構図的には何も変わらない。
こう考えると、われわれが「普通の日常」と考えているものは、普通どころか、特殊で異様な営みに思えてくる。冒頭に使った「すごい」という形容詞のもともとの意味は「ぞっとするほど恐ろしい」であるが、日常の営みに隠された構図は、この元来の意味こそ当てはまりそうだ。
歴史的に見ても、これだけの物質文明を達成したのは、ついこの間のことだし、地理的に見てもこの「すごい」生活を享受できるのは、人類のごく一部の独占だ。通時的にも共時的にも「普通」とは程遠い。
「我々は生活スタイルを見直さねばならない」というお題目は、石油危機の時以来、ちょっと前の気候変動枠組み条約会議の時に至るまで、幾度となく唱えられてきましたが、その時限りの口先わざだった。
500kmで走る鉄道は本当に生活の向上なのか、事務ができるほどの煌煌たる照明で24時間照らされたコンビニがこれだけの数、必要か、春夏秋冬出回るキュウリやトマトは食の豊かさの証と本気で思っているのか。
どうしてもそういう生活を追うのなら、石にかじりついてでも太陽光を無駄なく電気に換え、且つ高効率で充電する方法を最優先で考案するしかなく、それがすぐには難しいなら、中継ぎとして、日本近海に大量にあるメタンハイドレートの2018年実用化目標を前倒しするとかも一法でだろう。但しそれまでの何年かは、1億3千万人全員が計画停電に協力するしかない。
「停電も嫌、便利な生活も手放さない」というなら、火力と水力をフル稼働させるほかあるまい。それで2.2億kWが発電できるから、真夏の午後2時ごろのピーク時の消費電力1.8億kWを十分上回る(週刊朝日4月1日号・他)。もっとも、これだと、「CO2削減の国際公約」とどう両立させるのかという問題は生じよう。
あるいは、今まで通り、核エネルギーを取り出し、それと引き替えに、次の「想定外」に怯える生活も1つの選択肢ではある。場当たりな事故処理で再び世界中から非難されジャパンイメージを台無しにするのを覚悟の上ならば。

どの途にせよ、選ぶのは国民だ。エネルギー政策について、イタリアと同様、国民投票に委ねるべき時だ。それを少数の企業、つまり電気屋ごときに決めさせてきたのが大きな間違いだった。
その際、決して忘れてはならないことは、たとえ、将来、ほぼ100%の効率で太陽エネルギーを電気に変換させる装置が発明されたとしても、その装置を造る資源が有限である以上、人類が手に入れることのできるエネルギーに、その時代その時代で限りがあることに変わりはない、というこの一点。
国民が納得できる方法でのみエネルギーを手にし、それを上回るエネルギーを食う生活はみんなで控えることにしませんか。何を享受し、何を諦めるか、真剣に考える時だと思う。