松井知事「犯罪を犯すくらいなら自殺」

大阪ミナミのおぞましい通り魔事件の翌日、知事が「相談窓口に相談しても思いとどまらない人は止めようがないので、死刑になるような犯罪を犯すくらいなら自殺すべし」との主旨の発言をした。
実際自殺相談窓口に相談し、それでも生きていく気力が出なくて自殺するか否か逡巡している人が、この発言を耳にしたらどう思うのだろう。「やはり自分はもう世の中から引き止めてはもらえないのだ。窓口に相談する以外の方法はないのだ」と自殺の決意を固めてしまわないだろうか? それを弱すぎるとか、甘いとか切り捨てていいのだろうか。
もちろん、知事は「手に余る者は死ね」と言いたかったのではないだろう。しかし、彼の発言からは“他人の命であれ自らの命であれ、それは何よりも大切にすべきものであり、そのことは地域、学校教育、国家、人類社会がもろともに追求し、諭していくべきものだ”という一貫した思想が感じ取れない。
また、松井にききたいが、この容疑者が、事前に相談窓口へ「俺は前科者で将来の見通しも立たない。自殺も考えたが、それより、人を2人以上殺すと死刑にしてもらえるからそっちを選ぼうと思う」などと相談してくることがあり得るだろうか。百歩譲ってそう持ちかけてきたとして、窓口の職員やカウンセラーはそれを思いとどまらせる訓練を受けているのだろうか。そもそもそれは自殺相談窓口の領域なのか。
あるいは、この男が単に「自殺を考えている」とだけ相談窓口に打ち明けたとして、そこでどう受け答えるのか私は不勉強で存じないが、例えば「死ぬ位なら、死ぬ気でやりたい事に挑戦してみたら?」とアドバイスがなされ、かつ、その男のやりたい事が‘世の中全体への漠然とした、しかし根深い憎しみを晴らすこと’だったとしたら?
要するに、自殺願望が動機の犯罪、もしくは自殺願望に見せかけて世間の気を引く犯罪、さらには、少し前に続いた「何か大それた事をしてみたい」といった劇場型犯罪などを生み出さない方策を、我々はまだなんら講じていないのだ。古典的動機(欲得、特定個人への怨恨、口封じなど)による犯罪に対しては、制裁を下すため、または未然に思いとどまらせるためと称して、死刑を存置し、厳罰化を強め、未成年も大人並みに扱う方向で動いている。ところが、今回のようなタイプの犯罪は、まさにそんな今の制度を奇貨とし、またはこれをあざ笑うことを本懐として行なわれるのではないか。だとすれば、「犯罪より自殺を」という発言は滑稽でしかない。
もちろんだからと言って、死刑を廃止すれば解決するなどと単純に行く筈もない。が、更正させることを大きな目的とする刑務所を出所し、罪を償い終えた人が、より凶悪な犯罪への意志を固めてしまうとしたら、刑務所とは、いや、刑法とは何なのだろう? このあたりの本質論が、この度の衝撃的事件から考えるべきことの軸となることは間違いないだろう。
少なくとも、「人を殺した者は自分の命で償え」「この被告には更正の余地は無いから死刑」「君が代を起立して歌わない・歌わさせない教員は処分を」などに代表される排除の論理の延長上には、このての犯罪を無くす方策は見えてこないだろう。
排除しないまでも、ある人物に「前科者」「異端」「落伍者」等の烙印を押し、社会の側がその人に愛想を尽かした時、烙印された側も社会に対して愛想を尽かすのだと思う。今回の事件は極端な例だとしても、現在において、我々の社会と愛想を尽かしあっている層は、表面では平穏な生活をしている人々の中にも、思いのほか厚く存在しているのではないだろうか?
この考えが杞憂ならば幸いだ。だが、もし正しければ、「出所した人の中には立派に社会復帰した人も多い。それに引き換えこの男はくずだ」といった意見は(それが誤りだとは言わないが)、ある種の犯罪動機に対して今の社会が無力であり、矛盾をはらんでいることへの解決策を生み出しはしない。
いかなる犯罪者といえども、悔い改め、人に感謝される何かをなせる人間として、命ある限り努めるようになりうるし、社会はそれを支援する。そんな単純なことをなぜもっと愚直に追い求められないのか? これを理想主義とバカにするのならそういうシニシズムこそが、今回の無差別殺人の最も深層に横たわっているのではないか?
例の公約違反の増税に「命」をかけると言いつのるような人間が首相をしている社会だから、命の重みもデフレ・スパイラルに陥るのも無理はない、といえばこじつけだろうか。