世界遺産としての富士山

富士山といえば、漱石の『三四郎』で、広田先生が「不二山をはじめ、自然を翻訳すると、みんな人格上の言葉になる。翻訳出来ない者には、自然が毫も感化を与えない」と言っている。そこで、作者の分身と思しき広田先生にインタビューを敢行した。
「信仰の対象といい、浮世絵の定番となったことといい、国際機関が重視したのはつまる処その精神性だろう。日本人が富士山をただの観光資源とか、外国人客を呼び込む客寄せと扱うようになったら、世界遺産登録は取り消されかねんよ、君」
富士山を見て居住まいを正したくなるのは日本人の専売特許ではない。かのハリスも、幕府の対応に業を煮やしていた時、下田からの途上、あの山の荘厳な威容を目の当たりにして、機嫌に直した…と、これは手塚治虫の『陽だまりの樹』からの受け売りだが。
“形が美しくて動植物がある程度守られている山”というだけなら よそにいくらでもあるが、それだけでは世界遺産になれない。富士山が人の魂と対話してきた大自然の1つだから、という点に「守り残すべき人類にとっての普遍性」が存するのだと思う。