一条さゆり

今年8月5日は“伝説のストリッパー”一条さゆりの17回忌。劇団「水族館劇場」は以前から彼女をモチーフにした演目を打っていたが、その最終改訂版と銘うって、静岡→福岡→三重→京都→大阪と、上演ツアーの最中だ。
三重県は津の四天王会館での上演日に当たるゆうべ(31日)、『谷間の百合――NAKED――』を鑑賞したので、感じたことを書く。

§1.ストーリー
さゆりにストリッパーの仕事をさせて自分の借金の尻拭いさせる男、彼女が唯一心を許せる照明係の男性、などは、ある程度モデルがいるのか、純然たるフィクションの人物なのか知らないが、ともあれ、こういった設定の中で、彼女は自分の仕事について葛藤を深めていく。
自分の体を見に来てくれる客の満足げな顔だけを、偽りなき実在だと彼女は考え、生きる拠り所としていたようだが、それは自ら望んで就いた職業ではなかったし、虚飾に満ち、反目・嫉妬が渦まく世界だった。
ある日、鏡の向こうから出て来たような老婆と出会う。老婆は、「ストリッパー引退後のあんた自身だよ」と名乗った。
若い「これからのさゆり」と 老いた「あれからのさゆり」との対話に、周りで起きる出来事を挟み込んで、話は進む。若さを失った元ストリッパーの末路が如何に悲惨か、を繰り返し説く老婆の言葉に、さゆりは己の葛藤の本質を悟る。一条さゆりと池田和子(本名)はどちらが実体なのか? 「ストリッパーである」ことは演技上の虚像だと思いつつも、演じることが好きだし、自分の秘部を見つめる男たちを愛おしくも思える。なのに、その結果として、将来仕事から解放され実名に戻った途端、普通なら穏やかに送るべき余生を、蔑みの中で過ごさなければならないと、ほかならぬ「自分」から知らされるなんて!
思いを寄せていた照明係が、自分のヒモに殺される事件では、あまりの悲しさにその記憶を抑圧し封印したことが暗示され、絶望は深まる。
彼女を有名にした過激なストリップ中に刑事が踏み込むと、従容として手錠にかかる。刑罰が怖くて「見せる」のを控えようものなら、自分のアイデンティティは根こそぎなくなってしまうではないか−−そんな台詞はないが、一条の思いを、見る者は想像する。
出来事の度に対話や、時には 諍いも重ねてきた二人のさゆりは、ラストシーンで抱きしめ合い、「あなたは私。私はあなた」と確認し合う。あとは、老さゆりがその言葉に安心して昇天したことを暗示する雪。

§2.メッセージ
和子とさゆりはイコールだ、どっちが実体かという迷い自体が無意味だ、というのが、彼女の結論らしい。であればそれは、一条ほど劇的な人生を送れるわけではない我々にも響くメッセージだ。誰もが、社会の中で「課長」「先生」「奥さん」「新入生」等々と呼ばれ、その役割を演じている。いつかは現役を退いて、そのような肩書き=演技名が取れた「本名」だけで呼ばれる時代が来るからといって、そして人によってはその時一気に老け込んでしまうからといって、己の一生をどこかで2つに区分しそのどちらかを虚構だと斬って捨ててどうなるだろう?
だから、さゆりが己のなれの果て(あれからのさゆり)に向かって言う「あなたのように歳をとりたい」との、全てを受け入れる台詞はとても勇気を与える。「これから」も「あれから」も、共に私は引き受ける、という宣言だから。

もう一つのメッセージは、照明係の男性の「さゆりさんのつく 嘘は、嘘にならないんだ」という台詞。意味の具体性に欠ける点がやや不満だが、とりあえず「演技の中に真実がある」という程の意味か…? ともあれ、そんな人に出会いたいと思わせる素敵な台詞だ。

§3.なぜ、津で?
この演劇を知ったのは、新聞の地方版記事だった。記事は、彼女のゆかりの地を巡る形で公演ツアーが縦断される予定、と報じていた。 一条の名は聞いたことがあるかな…、という程度だった私は、十何年ぶりに演劇鑑賞もいいな、と思った。
津市のような、現代劇ファン層の極めて薄そうな地が、公演コースに入っている理由は、彼女の存在を広く世に知らしめた実録小説『一条さゆりの性』の著者・駒田信夫が安濃町(現・津市)出身であるためだが、そのことすら、この記事ではじめて知った。

§4.実存
“反骨のストリッパー”と修飾語付きで語られる一条だが、この劇の作者は、“社会派”性から重点を極力はずしているように見受けられた。
むしろ、彼女の仕事にまつわる葛藤と、考え抜いた末のその克服とを、警察に挙げられる覚悟に(やや曖昧に)関連づけ、事前警告もあったであろう「手入れ」からあえて逃げなかったようなシナリオで、一条の実存を賭けた内なる闘いが、反骨のように表面的には見えたのではないか、というのが作者の仮説なのかな、と解釈した。

§5.主な出演者
正直、主演女優「さすらい姉妹」についても、私は全く無知のまま、鑑賞に臨んだ。
幕が上がるや、まろびながら舞台に入る男女と、大柄の女。突き倒された女性が、さすらい姉妹の「妹」の方。その人の名をこの時の私は知らない。
“極道の妻”然とした女性に脅され、彼氏に泣きつかれて、意思に反してストリッパーに身を落とさざるを得なくなったヒロインは、倒された時に脱げて散らばった靴を力なく探す。靴の一方は、私の前、手を伸ばせば触れるくらいの所に 飛んできていた。だから、意気消沈した和子が うつむき加減に靴を拾い上げるシーンを、最も近い席でまぢかに見て、どきっとした。“モデル顔”と言える程の美形でも(失礼ながら)なく、“アイドル顔”と言うには、役どころゆえか憂いがあり過ぎる。そういう、容貌の形容など思いつきもせぬまま、私は「綺麗なひと!」とつぶやいた。
劇の終盤、警察が踏み込む場面。この場面までは、彼女の「踊り子」姿は演じられない。ずっと着物である。なので、私は
「年齢コードのない演劇だけに、小学生も見に来ているし、裸は無理か? 一条の“仕事”は何らかの象徴的方法で表現するのだろうか…?」
と思っていたが、流石に、着衣の女が猥褻罪で逮捕されてはリアリティがなさすぎる。上半身もろ肌を脱いでローソク・ショー(一条得意の)を演じる最中に お縄となるシナリオだった。
小ぶりの胸も、はだけた和服から見せる両脚も、あまりにも卑猥さの無い綺麗さ。卑しい言い方だが、全くムラムラしない「ストリップ」シーンだった。それは露出の少ないソフトヌードだったから だけではなかったように思う。
その姿は、「あえかな」という形容詞を思いつかせた。『日本国語大辞典』に「(前略)はかなげである様。ふつう若い女性に関して用いられる。また、上品で美しいという感じを伴って用いられることが多い」と語釈されるこの語は、こういう人を表すために存在する言葉か、という気がした。
公演後の役者紹介で、初めて、綺麗なひとは 鏡野有栖 という名前だと知った。ありがちな芸名だが、忘れられない名前になるな、と予感がした。

「あれからのさゆり」を演じる、さすらい姉妹の「姉」は千代次。姉妹のマシンガン的掛け合いも聞きどころ。

一条に嫉妬心を向ける踊り子役の宮村早貴も結構な美人。

進麻菜美の完璧な関西弁は、極道の妻に怖いほど嵌っている。


・続く