テロリスト・クリバリが示す「教え」

パリ南部で8日起きた警官殺害の容疑者アムディ・クリバリが、9日パリ東端のユダヤ系食材スーパーに立てこもった。BMFテレビから電話インタビューを受け、その電話を切った時、クリバリは受話器をきちんとかけなかったらしい。通話状態のままになった電話から、店内の様子は警察に筒抜けとなり、17時には祈りをしている様子が漏れた。直ちに突入が命じられ、クリバリは射殺された。
コーランの教えを寸分たがえぬ生き方を正しい生活だと信ずる原理主義者だからこそ、人質監禁事件のさなかにも定刻にメッカに向いて ぬかずくことを怠るわけにいかず、それが鎮圧の好機を作った。
このこともアラーの思し召しの1つに違いない。皮肉を言っているではない。原理主義を実践に移すことはやはり間違っていると言いたいのだ。もちろんクリバリの受話器の置き方は凡ミスであって、それがなければ突入には踏み切れなかった可能性が高いが、それでも今回、原理主義過激派が凶悪事件犯行中も毎日5回、大きなスキを作ることを知らしめたのも確かだ。もし彼らがこれに懲りて犯行中は祈りをしないと方針を変えるならば、すなわち、「ジハード(聖戦)」の間は「祈りを欠かすな」との教えを守りたくても守れないということになり、コーランは自家撞着する(仮に、あの挙が聖戦だとしてだ。まともな一般シリア人は「人の命を道具のように扱うイスラム国はイスラム教徒ではない」と言っている)。
では、コーランは信じるに値しない愚経典なのか? それも違うだろう。ムハンマドの教えは、教徒それぞれが、国情や各人の生活事情に応じ、また時代に合わせて緩やかに、自分の生き方を省みる道しるべとして利用すればいい。結局、世界のムスリムのうちの大多数が実行しているコーランとのつきあい方が正しいのだ。そう、あくまで緩やかに。間違っているのはコーランではなく原理主義思想である。このことを、他ならぬクリバリが命と引き換えに世界に示していったのだと思う。