NAGASAKI70年

70年前に長崎上空で炸裂したプルトニウム爆弾。 あの原爆の場合、爆風の威力が最大になるのは 、爆心地から500メートルの所だったそうです(熱線や放射線は別)。爆心地より、やや離れたところの方が被害が大きいのは、衝撃波が生じるメカニズムで説明できるといいます。その500メートルの所に、国民学校がありました。生徒、教職員の大部分が吹き飛ばされて死にました。爆風は、校舎の一方の壁を粉々にした後、0.1秒後に反対側の壁を突き破って行った、と分かったのは近年のこと。

戦争が終わり、その国民学校があった土地に小学校が再建され、校門を入ったところには原爆慰霊の銅像が建てられました。
登校してくる生徒たちは、銅像に「おはようございます」と頭を下げてから、教室に向かうそうです。もちろん8月9日だけではありません。毎朝です。この70年の間、ずっと、先輩から後輩へ受け継がれて来た習慣だそうです。
この習慣がなくなることはないでしょうね。「もう被爆から百年経ったから」とか「被爆者の最後の1人が亡くなったから」とか、そんな理由で、いや、それどころか、人類の悲願「核兵器の廃絶」が達成される日が来たとしても、小学生は、挨拶をやめないでしょう。自分たちが勉強しているのと同じ場所で、同じ年頃の何百人の生徒が、一瞬でこの世から消えたーーーその歴史は、未来永劫残るから。
私は、この生徒たちが銅像に頭を下げるのと同じ気持ちで、大日本帝国の侵略の犠牲者にお詫びをし続けるのが至当だと考えます。
「70年も経ったのに謝り続けることはない」とか「大日本帝国と日本国は別の国だ」などは、全て、足を踏んだ側の論理です。仮に日本が、今後も決して戦争に加担することはないだろう、と万国から認められ、テロリストさえもが、日本人を標的にすることはないと声明をだすような、夢のような時代を努力によって勝ち得たとしても、被害者に頭を下げるのをやめる理由にはならないでしょう。日本が平和国家になったからといって、殺された人が戻ってくるわけでも、苦役を受けた人が癒やされるわけもないからです。罪を許すかどうかは、足を踏まれた側の判断です。
安倍晋三というグランドファーザーコンプレックスに取り憑かれた政治家が、何を意固地になってか、70年談話からお詫びを削除しようと躍起ですが、それで、どこの誰が褒めてくれると言うんでしょうか? 「親日国」と言われる国へ日本国民が渡航すれば「お宅の首相は立派な談話を出したね」と言ってもらえて胸を張れるとでも勘違いしているんでしょうか。

アメリカでは、世論調査で「原爆投下は正当であった」と考える人の割合が 減少しているとも聞きます。歴史認識は、時に人間同士の亀裂を招きますが、やがて乗り越えられ、冷静で妥当な見方へ収斂することも少なくありません。なのに歴代の談話を「反省はするが謝らない」と変更し、歴代の憲法解釈まであっさり変更する権力者、並びに、そんな権力者が支持される国は、「この次は、もっと巧妙に軍国化してやるぞ」という意味で「反省」しているんじゃないのかと、勘ぐられても仕方ないと思うのです。