諫早湾の水門

20日諫早湾のギロチン裁判で、漁業従事者を中心とした原告の勝訴が確定した。長崎県の中村知事らの「陳情」は功を奏さず、菅首相の「上告せず」との決意は動かなかった。
これは私に言わせれば、知事のほうがアホ。今さら何を、である。
菅直人は、野党時代から締め切り堤防に反対を公言していたのであるから、いわば、高裁の判決は彼の思い通り(したがって、マスコミの上告「断念」という言い回しも不正確)の結果。
彼が民主党の党首になり、即ち首相になった時点で、「福岡高裁が、水門を開けよという一審の判決(08年6月)を支持したらイコール、確定」と覚悟して、それを前提に次の策を講じなければ知事失格である。それを今ごろ上告要請をするということは、政治家の言動や公約は都合しだいでいくらでも反故にするのが当然と心得ている証拠だ。


それにしても、である。なんという途方もない無駄だろう。干拓事業だけでも2500億円以上。それに漁業被害への補償。一審・二審の裁判費用。そして、いずれ始まる水門開放に伴う、入植農民が使う灌漑用水の別途確保の費用。
初めから工事をやめておけば浮いた税金である。
官僚と族議員の策謀が、司法で断罪されればされるほど、さらに税をドブに捨てる額がかさみ続ける構図を何とかできないのか。


大体、新たな干拓地に入植した新農民は、08年頃から農業を始めた、と聞いているが、この人らの職選びもどうかと思う。
もし仮に、もともとあの近くの農家が何か支障が生じて農業を一旦あきらめさせられ、代替地として新干拓地を当てがわれた、とかいうのだったら仕方ないだろう。しかし、実際は多くが、漁民(佐賀県に近い側の漁場で養殖や漁をしていて、国からの被害補償もほとんど得られなかった方たち)が既に提訴した後で農業を始めているのである。
どうせ「国策だから大丈夫」とか何とか官僚の甘言を信じたのだろうと思うが、無邪気すぎる。三権分立の国では、行政がいくらゴリ押ししても、司法の場で覆ることがあることくらい、中学生でも、いや、中学生のほうが解っている事だ。

ちなみに言うと、同じ理屈でもって、私は、今のこの時代に建設業の会社に就職した新卒の若者が、会社の公共事業受注の激減ゆえにリストラの憂き目にあったって、露ほども同情しない。自業自得である。
同様に、今回の判決内容、ならびに“上告しない”という政府の判断に対する批判は、見通しの甘い人間の愚痴に過ぎないと考える。


確かに諫早湾ではごくたまに洪水が起きているので、排水改良は別に講じなければならないだろうが、何十年に一度の大水害なら、この湾だけでなく日本中至る所にその危険があることは、今年の夏のゲリラ豪雨を見ればわかる。そもそも、この湾の干拓は江戸時代から行われていたわけで、それでも漁業を成り立たせる豊かな生態系との両立は出来ていたのだ。


このニュースを聞くとどうしても、私の地元の長良川の醜悪な河口堰を連想する。来年行われる愛知県知事選挙の候補者の一人が「河口堰開門」を公約の1つにしているが、こちらは諫早湾以上に、“治水”というのがでっち上げられた目的であることが衆知なので、希望が持てる。


長良川といえば、例の河口堰が社会問題となっていた1989年に出版された『長良川の一日』という本に、次のような逸話が紹介されている(開高健執筆の章)。
  かつてアイスランドのある美しい河川に、反対を押し切ってダムが造られた時、地元の牧畜業者が、夜中に忍んで行ってダイナマイトか何かを仕掛け、そのダムを爆破した。そうしたら、何と、地元の警察は、犯人の捜索をほとんど行わず、指紋の採取すらせず、事件は迷宮入り。政府がダムを再建することもなく、清流は保たれた、というのだ。
日本の無粋な警察にこんなイキな計らいは期待できまいが、ギロチンや河口堰も早いうちに粉々にしておけば、土建屋に払うハード費用の無駄だけで済んだのにな…、と思わざるをえない。