死の淵から生還し なお臆せぬ少女の平和賞受賞スピーチ

いつかは時間の問題でマララさんに平和賞が行くと思っていたが、同じなら早い方がいい。妥当な決定だと思う。
9条への期待もあったが、もし9条が受賞するとすれば、むしろ「平和貢献期待賞」ないし「あげたんだからそれにふさわしく振る舞えよ賞」の意味合いが濃いものになってしまう。たかだかオバマの時と同じ程度の意義しかない平和賞なら、そのために署名運動をするより、今は好戦主義者安倍晋三に不支持を表明する人が増えるよう働きかける方が先だろう。その点マララさんなら、アルフレッド・ノーベルの遺志に恥ずかしくない。
彼女は10日のバーミンガムでのスピーチの3分の1ほどを費やして、自分がパキスタン人でイスラム教徒であり、共同受賞者カイラシュ氏がインド人でヒンドゥー教徒であることをネタにした。2人の間には、たいていの紛争に絡む要因たる宗教の違いがあり、また、核保有国で今も戦火の絶えない国同士の出身ではあるが、しかし教育・人権への思いを同じくする者であり2人でもあり、共同受賞の意義はそこに籠められているだろうとの趣旨だった。さらに、この時期に印パ紛争が最悪の規模に広がり、彼女のスピーチが報じられた日の新聞にも「砲撃の応酬 21人死亡」の記事が載ったが、そんな現実に心を痛め、カイラシュ氏と約束したという――12月の受賞式に、お互いの国の首相が出席するように働きかけましょうという約束を。いくさをやめられない権力者同士を引きずり出して握手させようという志の高さに感嘆する。
「17歳が若過ぎるんで、60歳と共同受賞にしてバランスをとったんだろう。」と述べたコメンテーターがいたが、そんな要因しか思いつかない奴は情けない。
そんなスピーチのことを、「誰かに言わされてるんじゃないの?」と、大人の影を見るネットのカキコミがあった。しかし私は、スピーチ全文の英語と日本語訳に目を通してみて、所々にある英文の不整合(例えば、兄弟が1人なのか複数なのかわからないことや、間違いではないが、過多ぎみの進行形)、やや冗長な重複、散りばめられたユーモアの子供らしさ、といった“年齢相応さ”から判断し彼女の肉声だと信じる
今挙げたのは文章力の拙さを含意しない。むしろ胸を打つくだりも多い。原稿に頼ることなく、内心が駆り立てるロゴスが口を借りて現れた言葉だったからこそ、若干の呼応の不備が、文字起こしで見えてしまっただけだ。官僚が書いた原稿から顔を離さず棒読みする政治屋とは話が違うのである。スピーチは当初2分ほど、と記者らは聞かされていたが、蓋を開けたら10分をだいぶ超えたというから、せいぜいその2分ぶんというのが、仮にあったとしたら「大人」がアドバイスした部分かもしれない。大部分は17歳の心の声と考える方が自然。

タリバーン支配下パキスタンで、女性であることを理由に勉強を禁じられた経験から、「全ての子供に教育を」という理想に向けて戦う決意をしたことは 今回のスピーチでも語られた。国際NGOにも、CAREやPLAN(旧・フォスタープラン)など、貧しい国の教育を支援する団体は多いし、貧富の格差が固定・拡大しないために教育の均等が肝要だということは常識の範囲だろう。それにしても、前の国連演説で「Education is the only solution.」とまで断言した彼女の、あの熱情とこだわりがどこから来るのか、いまだ具体的には伝わってこない。だから私はマララさんに日本へも来て欲しい。じかに日本の市民と語って、またそこで何を感じたか、聞かせて欲しい。そうすれば、ちょうど10年前に平和賞をとったワンガリ・マータイ以来のマララ旋風が起きそうだ。教育を受けさせる親の義務が憲法に記されている国に住む人間が忘れていることを思い出させてくれるのではないか? それは、究極のところ、学びは解放の手段だというテーゼではないだろうか?
2025年には20億人になると言われるムスリムの価値観についても、彼女のような人から教わりたい。

ただ、「良かったね」とお祝いを言っているだけでは済みそうにないのも現実。イスラム原理主義者どもは「今度こそ殺す」と表明しているし、天声人語(12日付)は「受賞が過激派を刺激する可能性もあろう」と憂慮を示した。ネットには「かえって彼女は危険になった。ノーベル賞委員会は無責任」という意見さえ見られる。2年前の10月、頭に銃弾を浴びた彼女が死の淵から生還したことをもって、生きてこの世で何ごとかを成し遂げるよう運命づけられた人なのでは?と感じるのは私だけではなかろうし、マララ本人は、自分の大手術の成功をアラーの思し召しと信じているに違いない。怖いもの知らずにも見える彼女を守ることは、テロに絶対屈しないと宣した国際社会、ならびに受賞を祝福した全ての国民とそれ代表する政府の務めだろう。それはパキスタンの一少女をボディガードすることにとどまらない。それこそ「5700万の子供の権利」を守ることであり、ひいては、万一再びの凶行で彼女が命を落とした時にどれだけ狂信者をつけあがらせるか、を考えてみれば、彼女を見殺しにすることは我々をも脅かすことである。ノーベル平和賞受賞者を殺すことは世界中を敵に回すことだという断固たるメッセージを発し、そのために必要な策を講じるのは有効な税金の使い方だと考える。
今 彼女は、あれほど望んでいた「教育」を、英国の地で受けている。その業を終えて社会に出る時、今の夢==良い政治家になりたい==を持ち続けていたなら、彼女を政治アイドルとして担ぎ上げ利用せんとする勢力が現れてくるかもしれない。しかし、それも、世の中を変えようと志す人間のくぐらねばならない関門だろう。持ち前の行動力と、優れた表現力に、カイラシュ氏並みの経験が加わった時、マララ・ユスフザイは伝記にも書かれ、永く伝説の女性となりうる、それだけの素地を備えた人だと見た。