ボームの答は?

 9月10日の『ビッグコミック』で、ゴルゴ13の 記念すべき第555話「ロンメル将軍の財宝」4回連載が完結。

今回のGへの依頼人である ボームはドイツ連邦情報局のエージェント。
結局、ターゲットは、反ナチを表面上掲げつつ腹の中ではナチ再興を画策する政治家だったのだが、この555話の「上巻」で、彼が或るイスラエル人に向かって「我々ドイツ人は、いつまで戦争中のことで誤らなきゃならないんだ」と詰め寄るシーンがあった。それは、問いというより彼の自問自答であったが、「下巻」で、戦争加害国の国民・ボームの辿り着いた答は「ヒトラーの犯罪に、確かに我々以降の世代に責任はない。だが、我々は永久に謝り続けるべきだ。相手が許してくれようとくれまいと」であった。そして、物語の最後にボームはこう言う。
ヒトラーが二度と現れることはない、などというのは戯言だ。今だからこそ、いつ現れてもおかしくない」

ボームは、セリフとしてこそ明示しなかったが、
「我々が、世代交代を口実に、父や祖父の代の謝罪でもう十分でしょう、とそれをやめた時、
“今のドイツ連邦は、ファシズム政権と体制が根本的に違う。もはや、侵略行為や、ホロコーストなどを試みる者が権力を握ることなどあるものか”
という根拠の薄い楽観論の陥穽がますます大きな口を開けて、悪夢の再来に道を開く」
と言外に言っているような気がしてならない。
そして、これが、デューク・トーゴーの生みの親である劇画作家の「答」でもあるのかどうか、私には判らない。が、下巻の1シーンの見出しがわざわざ「ボームの答は」とタイトリングされているのも作品世界の事実である。
殺人罪を含む、個人の刑法犯罪は、裁判によって裁かれ、有罪を言い渡され確定した者は刑罰によってその罪を償う。では国家が戦争犯罪を含む「一種の組織犯罪」を犯した時、何と何を成し遂げた時点で、罪を償ったと認められるのか? その基準を決める主体は誰か? 主体が誰かを決めるのは誰か? 今、我々はこの堂々巡りのまっただ中にいるのではないか? 落としどころの見えないこの問を放置したまま、戦争に協力する国造りが他の全てに優先されるコンセンサスがあるかの如くに凄まじいスピードで構築されている。
555話が、それに一石を投じるかどうか予測できないが、私も国の加害の歴史については認識を深めていきたい。

ITはヒトをアホにするか否か

OECD経済協力開発機構)が、31ヵ国・地域について、

学校に備えられたパソコンの生徒1人当たり台数



学習到達度の数学的リテラシーの成績

を調べた、という、小さな記事が朝日新聞にあった。

結果は、

オーストラリア,ニュージーランドのように生徒当たりのパソコン台数が多い国では、成績が低下したのに対し、

トルコ,メキシコなど、パソコンの教育現場への普及 未だし、の国では成績が上がった

とのこと。

さて、これを、

車に日常的に乗る人の脚が弱くなるのが避けられない如く、大脳の代わりを受け持つ機械に頼ることが多い人は脳が退化して当たり前、

と、因果関係を認めるべきなのか、

それとも、2つの変数は、原因ー結果の関係にあらず、2つとも何らかの第三項の結果かもしれない、

と疑ってみるべきなのか…?

そして、次は、お年寄りに“ボケ防止”と称してパソコンやスマホをやらせるのがホントに有効なのか、WHOあたりに臨床的にきっちりデータをとってもらいたい。

NAGASAKI70年

70年前に長崎上空で炸裂したプルトニウム爆弾。 あの原爆の場合、爆風の威力が最大になるのは 、爆心地から500メートルの所だったそうです(熱線や放射線は別)。爆心地より、やや離れたところの方が被害が大きいのは、衝撃波が生じるメカニズムで説明できるといいます。その500メートルの所に、国民学校がありました。生徒、教職員の大部分が吹き飛ばされて死にました。爆風は、校舎の一方の壁を粉々にした後、0.1秒後に反対側の壁を突き破って行った、と分かったのは近年のこと。

戦争が終わり、その国民学校があった土地に小学校が再建され、校門を入ったところには原爆慰霊の銅像が建てられました。
登校してくる生徒たちは、銅像に「おはようございます」と頭を下げてから、教室に向かうそうです。もちろん8月9日だけではありません。毎朝です。この70年の間、ずっと、先輩から後輩へ受け継がれて来た習慣だそうです。
この習慣がなくなることはないでしょうね。「もう被爆から百年経ったから」とか「被爆者の最後の1人が亡くなったから」とか、そんな理由で、いや、それどころか、人類の悲願「核兵器の廃絶」が達成される日が来たとしても、小学生は、挨拶をやめないでしょう。自分たちが勉強しているのと同じ場所で、同じ年頃の何百人の生徒が、一瞬でこの世から消えたーーーその歴史は、未来永劫残るから。
私は、この生徒たちが銅像に頭を下げるのと同じ気持ちで、大日本帝国の侵略の犠牲者にお詫びをし続けるのが至当だと考えます。
「70年も経ったのに謝り続けることはない」とか「大日本帝国と日本国は別の国だ」などは、全て、足を踏んだ側の論理です。仮に日本が、今後も決して戦争に加担することはないだろう、と万国から認められ、テロリストさえもが、日本人を標的にすることはないと声明をだすような、夢のような時代を努力によって勝ち得たとしても、被害者に頭を下げるのをやめる理由にはならないでしょう。日本が平和国家になったからといって、殺された人が戻ってくるわけでも、苦役を受けた人が癒やされるわけもないからです。罪を許すかどうかは、足を踏まれた側の判断です。
安倍晋三というグランドファーザーコンプレックスに取り憑かれた政治家が、何を意固地になってか、70年談話からお詫びを削除しようと躍起ですが、それで、どこの誰が褒めてくれると言うんでしょうか? 「親日国」と言われる国へ日本国民が渡航すれば「お宅の首相は立派な談話を出したね」と言ってもらえて胸を張れるとでも勘違いしているんでしょうか。

アメリカでは、世論調査で「原爆投下は正当であった」と考える人の割合が 減少しているとも聞きます。歴史認識は、時に人間同士の亀裂を招きますが、やがて乗り越えられ、冷静で妥当な見方へ収斂することも少なくありません。なのに歴代の談話を「反省はするが謝らない」と変更し、歴代の憲法解釈まであっさり変更する権力者、並びに、そんな権力者が支持される国は、「この次は、もっと巧妙に軍国化してやるぞ」という意味で「反省」しているんじゃないのかと、勘ぐられても仕方ないと思うのです。

『宝島』休刊

40年以上続いた月刊『宝島』の休刊発表。最近は雑誌そのものをすっかり買わないから、残念がる資格はないかもしれないが、やっぱり寂しさを感じる。 左だか右だかさっぱりわからない無節操なまでの振れ幅も魅力だった。
朝日ジャーナル』のように、何年かに1度だけ、大きな時代の動きがある時だけでも、思い出したみたいに臨時増刊号を出してくれたらいいのに。いや、あの出版社のことだから臨時冗刊?
同時に休刊発表がなされた『CUTiE』の方は、存在も知らなかった。
私は定期の『宝島』よりも『別宝』の切り口が好きで、結構読んでいた。といっても、家の書棚を改めて探ってみたら、『特集・売春するニッポン』『エイズ文化人類学』2冊しかなかった。立ち読みや、図書館貸し出しが多かったのは確かだが、もっと買っておいたと思ったんだがな…。ちょっと申し訳ない。
ネットでは、『別宝』は続けるとか書きこまれてるけど、ウラの確かな情報? ただの噂?

ナマズの蒲焼きに賛成

ウナギ価格の暴騰を受けて、ナマズで代替できないか、というニュースがあった。 http://withnews.jp/article/f0150518000qq000000000000000W01z0801qq000011993A

近大の有路昌彦准教授らが工夫したナマズの蒲焼きは大変好評だという記事だ。

ナマズは、韓国でもメニューに載ることがそう珍しくない。「メギタン」という탕(汁物)が、レシピとしてメジャーである。ウナギも、韓国では汁物が一般的だが、同じ料理法で比べれば、ナマズの方がウナギより美味しいと、私は思う。

そもそも、絶妙な包丁さばき、炭火焼き、そしてあのタレで食べるからウナギはごちそうになる。

生を買ってきて塩焼き・醤油焼きで食べたことがおありの方はご存じと思うが、ウナギ自体は、大変、味ない食材で、素朴に食べるなら、鯖などの方がよっぽど上だ。

あまり美味しくないが食べれば精がつくことを昔から人々は知っていて、いわば“薬と思って” 泥臭さを我慢して食べていたのではないか? 有路教授も、「ウナギは、もともとは滋養強壮のためだけに食べられていた」と述べている。

何とか素材の味なさを補うべく、蒲焼き という素人の及ばぬ、洗練の極みのような、しち面倒臭い料理法が年月をかけて開発され、定着したのではなかろうか?

ならば、資源枯渇の虞れのなさそうな淡水魚ナマズも手間をかければ美味しいのは当然だろう。

「中国の脅威」はプロパガンダ?

中国の武装漁民が日本の離島を占拠する、といった、準有事への対応のための法整備が見送られた。警察や海保が権限を自衛隊にとられるのを嫌がった、とか、日本側が事態を軍事対軍事にエスカレートさせたと口実を中国に与えてはいけない、とか、適当な言い訳が報じられているが、とても本当の理由と思えない。数ヵ月もの国会延長をしておきながら、表向きその程度の理由であの安倍が今国会での成立をあきらめるということは、初めから、「台頭する中国の脅威」とやらは集団的自衛権行使を正当化する口実だったという有力な証拠ではないのか? 中国を相手に戦争する気など毛頭無いアメリカは軍事費を削減しても中東その他で覇権だけは持ち続けたいし、戦争もしかけたい。それを支えるため、日本の犬国家の性格を更に顕著にする解釈壊憲だった、という証拠といえよう。

メディアへの恫喝 2

木原や大西や百田らの妄言が、安倍政権 支持率を下げる効果に期待し、ああいう人間にもどんどん発言させるといいな、やっぱり“表現の自由”はそういう意味でも要るなーと今朝まで思ってた。

ところが、そんな単純な事ではないのかも、と、30日にアップされた↓を読んで思い直したりする。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/fujisiro/20150630-00047130/
藤代裕之さんの推測が正しければ、一連の発言と その事後処理は、国民の関心を戦争法案からそらすための戦略であり、マスメディアも、奴らを批判した国民も、利用されているということになる。
確かに、あのあからさまな「反民主主義」の、分かり易すぎる妄言の連発からすると、藤代説を過度の深読みと言い切れない。